Last Updated on 2025年7月22日 by 成田滋
私にとって、戦後日本各地のルーテル教会で牧会されていた宣教師の先生方には格別な思い出があります。多くの宣教師がなぜ海外で活動されたのかは、いろいろな動機や使命感があったのだろうと察します。今も日本には、ノルウェイ、フィンランド、スエーデンなどスカンディナビア諸国からの宣教師が活躍されています。宣教の場所として、戦前は中国大陸が選ばれ宣教活動をしていました。大陸での戦線が拡大するにつれて活動が困難になり、日本を新しい宣教の地として選ぶのです。宣教の母体となったのは、アメリカはセントルイス(St. Louis) にあるミズーリ・シノッド(Missouri Synod)という福音系のルーテル教会です。やがて日本ルーテル教団が設立され、各地で宣教活動が開始されます。私はこうした宣教師に出会い札幌のルーテル教会で洗礼を受けました。
日本ルーテル教団の宣教師のお一人がジェームズ・ウィズィ師(Rev. James Wiese)です。この方との出会いを紹介することにします。ウィズィ師は1936年10月に、インディアナ州の農村で生まれます。13歳でコンコーディア・フォートウェイン校(Concordia Fort Wayne)の牧師養成プログラムに入学します。セントルイスのコンコーディア神学校(Concordia Seminary) で神学修士号を取得します。その後、スタンフォード大学(Stanford University) で学校経営と日本研究の修士号も取得した方です。
神学校卒業後、奥様のリタ(Rita)さんとで日本にやってきます。それから34年間、家族とともに日本で教会の様々な役職を歴任し、セントポール国際ルーテル教会(St; Paul International Lutheran Church)の牧師、日本ルーテル教団立の聖望学園(Holy Hope Schools)のチャプレン(chaplain)兼校長となります。聖望学園はウィズィ師の尽力でセントルイスにあるミズーリ・シノッド教会の婦人会の寄付によって設立された中等教育学校です。後にアメリカンスクール(American School in Japan)の開発部長などを歴任されます。その他、大阪国際学校の初代校長兼理事長、横田米軍基地牧師を務めるという経歴の持ち主です。彼はまた、在日商工会議所、東京国際交流会館、そしてロータリークラブ(Rotary Club) にも積極的に参加します。さらに日本スタンフォード協会(Japan Stanford Association)の会員でもありました。
ウィズィ師に私はどのような恩があるかを申し上げます。それはウィズィ師が日本スタンフォード協会の会合で横須賀にある国立特殊教育総合研究所の部長に会います。この部長もかつてスタンフォード大学で留学した経験があります。私はウィズィ師に日本のどこかの研究所や大学で仕事をしたいということを伝えておりました。彼はこの部長に私を紹介したのです。しばらくしてこの部長から連絡があり、彼にウィスコンシン大学の学位の写しや成績を手渡しました。そして面接のあとにこの研究所に就職できました。日本スタンフォード協会を通して、ウィズィ師にお世話になったことで、この同窓会の会員は絆が非常に強く、会員同士の信頼が高いということを後で知らされました。蛇足にはなりますが、東京を中心とする我がウィスコンシン大学の同窓会は、極めて凝集力が弱いことを感じます。
私は10年あまりこの研究所で働き、その後兵庫教育大学に移りました。2012年に院生を連れてカンザスのオマハ(Omaha)の学校視察に行きました。もちろんウィズィ師を頼っての訪問です。オマハ市内の学校訪問で同行してくれたのは師の長男夫妻でした。そのとき、ウィズィ師のご両親や親戚にお会いしたことをお伝えしました。それはジョージアでの語学研修が終わり、ウィスコンシンに向かう途中、私と家族はインディアナ州のレイノルズ(Reynolds)という小さな街に住むウィズィ師のご両親宅に泊まらせていただきました。ウィズィ家は、広大な農地でトウモロコシ栽培を経営していました。地平線まで広がるようなトウモロコシ畑でした。ウィズィ師は帰国後、カンザス州(Kansas) オタワ(City of Ottawa)のフェイス・ルーテル教会(Faith Lutheran Church)、その後テキサス州のオデッサ(Odessa)にあるリディーマー・ルーテル教会(Redeemer Lutheran Church)から招聘を受けて奉仕します。
2012年にRitaさんよりメールを頂戴し脳腫瘍で入院されていることを知りました。脳腫瘍は手術のしようのない病といわれます。そして天に召されたとの便りを貰いました。享年76歳でした。
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